2020/06/04 02:27

6月3日 くもり

本日のBGM Nino Tempo & April Stevens

画像2

藤原定家(ふじわらのていか)の人となりは19歳から75歳まで書き続けた日記、「明月記」からうかがい知ることができます。

藤原定家は生きていた時から和歌の実力を認められていましたが、死んだ後さらに評価が高くなり、中世では芸術の神様のように崇めたてられていました。


しかし明月記の内容はというと、ほとんどのページで、「体調が悪い」「全然ご飯食べれない」「もうすぐ死ぬと思う。。」といった体調不良のアピールという、初期老人がよくやるやつを20代の頃からずっと言っていたり、

常に体調が悪いもんだから しょっちゅう祈祷(きとう:おがむこと。当時 病はお祈りで治そうとしてた。)をしてて、これがまたけっこうお金かかるらしくて、そのためいつも「お金がなくて今月やばい」「なんでこんなに貧乏なんだ」「お金をどうにか工面せねば」とか、

「出世したーい」「もうすぐ出世しそう!」「やっぱりダメだった。。」と けっこう出世欲むきだしで、政治にもすごく関わりたがっていたり(結局最後まで要職にはつけませんでしたが)、

「全然いい歌がでてこない」「もうだめだ」「やっぱりもうすぐ死ぬと思う。。」などと大変に人間味のある内容、というか かまってちゃん的な嘆き節満載で、心の蛇口だだ漏れって感じなのが明月記です。

もちろん資料価値の高い当時の記録も数多く記されています。なんてったって国宝だもの。

画像3

そんな嘆き節も悲壮感があるというよりは、客観的に自分のことを捉え直しているような感じで、大変だ大変だ、と言いつつ結構のんびりした他人事のような空気があって、

それというのも定家の価値観のベースはやはり和歌であって、それ以外のことは半分くらい どうでもよかったんじゃないかしら。


出世がしたいと日記に書く割には、他の貴族と和歌のことで何度も揉めて出世が遠のいたりしてるし、

定家があまり評価されなかった時代に、自分を拾い上げてくれた後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)とも歌のことで何度も衝突してて、

上皇主催の歌会の席では、上皇を非難した内容を練り込んだ歌を発表して、「お前なんかと2度と会うもんか!」と上皇を大変に怒らせて謹慎させられて、そのことで出世がさらに遠のいたりと、歌に関してはまったく融通が効かない頑固なところがあったようです。


ところで この時代の貴族というのは みんなバイリンガルだったそうで、この明月記も漢文で書かれたものでした。漢字や、中国の故事なんかを どれだけ知っているのかが教養であった時代で、和歌の中にも そのイメージはふんだんに盛り込まれているから、その前提知識があるのとないのとでは和歌の理解度がまるで変わってきます。 


言葉が違うと、文法やリズム、言葉が育まれた民族の価値観などに引っ張られて、しゃべる人間の考え方も変わるといいますから、この明月記は定家にとっては一つの気分転換であったのかもしれません。

画像4


普段は日本語を練りに練って和歌を作っているわけですから、もし日記でも日本語を扱ってたら必要以上に練ってしまって、書くのがしんどくなっていたのではないでしょうか。

漢文で、心の声だだ漏れみたいな明月記は、もしかしたらセルフセラピーの役割を果たしてて、歌作りとのバランスをとっていたのかもしれません。絵描きが絵を描くのに疲れたら息抜きで落書きするみたいな。


たぶん創作をする人は、創作物に対して真摯であるほど、それに取り組む前にせんでもいい掃除をしたりとか、緊急性のない用事をわざわざ見つけてやったり、あるいはゲームやタバコやお菓子なんかで弛緩したりして、自分の中でテンションを作ってものづくりに取り組むのではないかと思いますが、その役割をこの明月記は果たしていたんじゃないかと思います。


別の思考方法で物事を考えたり、なにか別の作業をしなければならない状態でいることで、本業から適度に力を抜くことができ、その結果バランスが良くなって長く創作を続けることができるのではないでしょうか。あまり一つに集中しちゃうと疲れちゃいますもんね。


藤原定家まだ続きます。

おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目