6月7日 快晴
本日のBGM Fats Waller
今回は後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)についてですが、後鳥羽上皇は母親ちがいの姉である安徳天皇の次に天皇になった人で、安徳天皇はというと源平合戦の1番最後、下関で起こった壇ノ浦の戦いで、「もはや平家もこれまで」となった時に、三種の神器のひとつ「草薙剣(くさなぎのつるぎ:天叢雲剣 とも言う)」とともに祖母に抱えられて海に身を投げました。その時 安徳天皇は満6歳、後鳥羽上皇は満4歳でした。
後鳥羽上皇は、安徳天皇の死と、天皇の証である三種の神器を 史上初めて欠いた状態で天皇になった経緯により、周囲からはいつも「やめときなよー天皇なんてさーそんな器じゃないよきみい わたしが代わりにやってあげるよ?」とか
「しょせん棚ぼたなんだから 本当のところ誰も認めちゃいませんよー わたしだったらやめちゃうなー うん やめちゃうね」などと さんざん陰口を叩かれて、天皇という立場であるのに周りからは認めてもらえないという状況で育ちました。後鳥羽上皇もまた、天皇家の在り方が大きく変わる時代に生きた人物でした。
「そんな国宝とか言うても剣が一本なくなったくらいで 何をそないにゴタゴタ言われなあかんねん。剣なぞまた作ったらええやんけ。金ならたんまりあるしい。今度作る時は外部のデザイナー雇ってもっとモダーンでオシャレーなやつにしたったろやないの」
などと現代の感覚からしたら思いそうなものですが、当時の貴族たちは どうもそのようには発想しないようです。
貴族階級というのはどこの国も大体そうですが、「自分たちが一般人より優れている」と言うことの根拠を 血筋の正統性に求めます。
ざっくりいっちゃうと「偉いあの人の ひいひいひ孫に当たる私もまた偉いのでっす!」という感じで、その感覚が何世代も続けば、やがて生まれてくる子供たちは、「偉い人は偉い。偉い人の親戚もまた偉い」 という考え方を、世界に昔から存在した自然法則のように当たり前のことと思うようになります。
まあ犬の血統書みたいなものですが、そういう世界では伝統というものが非常に重く扱われます。下賤な民である私などは「そんなん形だけやんけ」と思ってしまいますが、彼らにとってはむしろその形こそが主体であって、形式に則らないことを彼らはなによりも拒絶します。形式を軽んじることは自分たちを軽んじることにつながるからです。
映画でもマイフェアレディとかプリティウーマンとかで、下層階級役のオードリーヘップバーンやジュリアロバーツが上流階級に仲間入りする際に審査されるのは、美しい服装と上品なマナーと正しい言葉遣いです。これらに加えて、伝統的なしきたりや儀礼に関する知識を習得しているものが貴族社会において優れた人材となります。
服装とマナーと言葉遣いは現代でも ばっちり通用するスキルで、逆に言うとそのスキルはすべて努力で身に付けることができるから、才能よりも努力でどうにかなる部分を評価してくれる所は貴族社会のいいところかもしれないですね。
まあコールガールが たった半日で言葉遣いを改善した上、正しいマナーまで身につける、というのは 並大抵の努力では不可能だと思いますが。
貴族たちのこういう態度は、信仰する神様を除けば 自分たちが世界のトップに立っているという自覚によるもので、彼らにとって重要なことは自分たち同士の世界でおこる物事であり、他の貴族から認められないことは、ステータスから「貴族」を抜かれてしまうことを意味しますから、それは彼らにとって大変に恐ろしいものです。
このような価値観は、社会的な影響力が強くて、なおかつ人間関係が閉じている業界でも育まれます。その業界を作っている枠組み自体が強力で、重要なポストが限られていたりすると そうなるんでしょうかね。
藤原定家が50年以上日記を書き続けた目的も、宮廷の儀式における正しい作法や知識、服装や習慣など当時の公務において重要な情報 a.k.a 貴族おしごとマニュアル を子孫に伝えていくためでした。
んがしかし、定家は歌で高く評価され、子孫は歌道の家になったので、定家が子孫たちを救う家宝になると思って書いていた公職向けのお役立ち情報は あまり要らなくなってしまいました。ちょっと切ないですね。
それでも明月記は、定家の書体や当時の記録を伝えてくれる非常に重要な書物に変わりありません。むしろ歌の実力によって、マニュアルに縛られなくてよくなったというのは、現代から見れば大変うらやましいことのように思えますね。
えー、結局後鳥羽上皇については また次に続きます笑
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目