2020/06/10 02:22
6月9日 晴れ
本日のBGM Judy Collins
今日はカメラマンの友人と、くろつる屋の管理人である妹と、その娘の 2歳をいくらか過ぎたY氏が庚申窯に来ておりまして、また動画の撮影をしていました。
動画には「庚申窯の人々」という当たりさわりのなくて無難な、ではなくて、シンプルで飽きのこないタイトルがつくことになりまして、タイトルの文字を妹が筆で書いて、その書いてる様子を撮影したり、
あとは「Y氏の庚申窯探検」という、子供が自然の中で遊ぶというシリーズも撮影するつもりだったみたいですが、お年頃なワイ氏がバチバチに人見知りをかましてくれまして、カメラを向けられるたびに逃げていくので、なかなか撮影もままならなかったようです。
カメラマンの友人は結構子供好きで、ワイ氏が生まれたての頃からワイ氏のことが割とお気に入りだったから、久々の再会で すっかり忘れられたことに いささかショックを受けつつ、それでもめげずに 人見知りでつれなく逃げ回るワイ氏を、哀愁漂う背中にカメラを担いで追い回しておりました。
私も子供のころ、当時から自分でも「ひどいな〜」と思うくらい人見知りだったので、逃げ回るワイ氏の気持ちも非常にわかりまして、その頃の気持ちを思い出してみると、親しみのない他人はとっても「イヤ」なんですよね。
もしかしたら「知らないから怖い」も幾分かあったのかもしれませんが、とにかく「イヤ」というのが大きく、「いつも通りの自分が出てこない」という感覚もあったと思います。
人見知りは 知らない人はもちろんのこと、知ってるけどそれほど親しくない人にも同じように発動して、その人たちの前ではすんごく消極的になって、動いたり喋ったりがうまくできませんでしたが、
そのことを自分でも分かっておりまして、人見知りをコントロールできない自分にも随分イヤな感情を持っていたように思います。
他人がイヤというのは、おそらく彼らが思い通りにならないから ではないでしょうか。幼年期というのは言葉など喋らなくても、こちらを気遣って ご機嫌をとって 自分の代行をなんでもやってくれる親との完結した世界の中にいて、その状態はもはや「王」って感じですが、そこにやってくる他人というのは全くルールが違っていて、心地の悪い異物のように感じるからイヤなんだと思います。
人見知りの始まりというのは たぶん他人の区別がつき出して、それは同時に自分と親との区別もつきだすことで、自分の幼年期の終わりを感じ始める時期ではないかと思います。
親との関係は阿吽の呼吸で意思が伝えられるのに、ルールが違う他人の前では、演じるべき人格をまだ獲得していないから、どうしたらいいのかわからないということなのかもしれません。
そして親とのセットではなく、独立した人格として扱われることに対する戸惑いもまたあるのかもしれません。それはつまり社会性を身につけ始めた第一歩という所でしょうか。
現在の私は人見知りが治ったのかというと、根本的には治っておりませんで、人見知りのまま自分の人格をコントロールする術を習得してるというような状態です。
そのおかげで人前だと どうしていいかわからず途方に暮れるということは無くなりましたが、「人に会った後は やはりとっても疲れるなー」という感じで、他人用の人格の装着に疲れることを自覚しておりまして、
例えるなら普段ノーメイクで気楽だけど、たまに人前に出る際のメイクは、慣れてないもんだから やたらと時間と手間がかかって、必要以上に丁寧に塗っちゃうから、家に帰ってメイクを落とすと自分が疲れてることに気づくみたいなもんかしら。
他人と関わるための、親から独立した人格が形成され始めた 柔らかい段階が、人見知りという時期なのかもしれません。
ただ私の場合は逃げのタイプの人見知りでしたが、ワイ氏の場合は、今日など 私を家の中から追い出した後、扉を閉めて入ってこれないようにしようとしていたので、たいへん能動的な人見知りで、こやつは いずれ大変勝気な娘になるだろうなーと思いました。ワイ氏の将来がとても楽しみです。
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目