2020/06/13 02:44
6月12日 くもりときどき晴れのち雨
本日のBGM Muddy Waters
前回 貴族社会は現代に比べて小さく完結していると書きましたが、そのような閉じた世界の住人は、はみ出しものを嫌いますので、出る杭は打たれるといいますか、
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は古き慣習を積極的に革新しようとしていて、藤原定家(ふじわらのていか)は和歌の新しい表現を常に模索していましたから、他の貴族からしてみれば二人とも「出る杭」でありました。
そんな二人は和歌を理解する感性を互いに持ち合わせていて、革新を望む後鳥羽上皇は、古い形式から脱却した 新たな和歌のスタイルを築いていた定家に惚れ込みます。このことは定家の日記にも「やっぴーうれぴー大ハッピー!上皇様に褒められちったよー!」と記されています。
後鳥羽上皇は定家より18歳年下であり、コンプレックスによって古い価値観というものに疑問を持っていましたので、当時「新しいっぽいだけで何の伝統にも根ざしていない難解ぶっているだけのインテリ嫌味歌」と言われていた定家の歌を素直に評価することができたのかもしれません。
二人は和歌を通じて惹かれあい、そんな二人の初めての共同作業が「新古今和歌集」の選曲プロジェクトでした。
こういった「何とか和歌集」というのは朝廷の示威行為と言いますか、一種の意思表明でもありますので、後鳥羽上皇はこの新古今和歌集でも、かつて作られたものとは違う「自分ならでは」のものを作ろうとします。
この新古今和歌集の選曲には5人の歌人が任命され、その中の一人が定家でした。定家は歌の才能が認められた上に、歌人として最高峰のミッションを任されたことで心躍り、気合を入れてこのプロジェクトに取り組みました。
この当時の日記には「今日は歌を読んでいた。おわり。」みたいに書かれていて、本当に歌を読むだけで1日が終わっていったそうです。なにせ過去数百年分の記録されていた歌を読みこんで、その中から選ぶことになるので、いつまで経っても終わりが見えなかったとか。
そんな新古今和歌集のプロジェクトがスタートしたのが1201年ですが、以前から後鳥羽上皇に対して「やめちゃいなよYOU☆」と圧力をかけてきていた関白の源通親が死去。彼は政界の大物だったのですが、突然死んでしまったために引継ぎなどされておらず、権力構図にポッカリ空白ができることになりました。それが1202年。
そして1203年には鎌倉幕府の2代目将軍が伊豆に幽閉されて、12歳の源実朝が3代目となります。この2つの出来事により後鳥羽上皇は「こりゃ〜ついにワシの出番きたでおい」と政治の表舞台へと おどり出ます。
この出来事のあたりから後鳥羽上皇は名実ともに真の王になれるかもしれないと、今まで以上に「俺はすごいぞデモンストレーション」を強めていき、芸術のことだけ考えていたい定家とだんだんと衝突するようになります。
新古今和歌集の選曲にも、後鳥羽上皇はガンガン介入しだしまして、「なんか違うんだよね〜俺のイメージと。違うんだよな〜これじゃあないっていうかさ〜。こんなんじゃ古今和歌集と変わらないじゃない。新しい地平をみたいじゃない。」
と言って すでに選んでいた歌を、古い歌が多すぎる と言って除外し、代わりに現代作家の作品を多く取り入れて「現在性」を強くするよう命じました。
定家は「なに言ってやんでいこのやろう。こいつあ おれっちが毎日寝もせずに選び出した珠玉のラインナップだいっ。全部計算して組み立ててんだから、その歌を削ったらこっちの歌が生きてこない、この歌を入れたら流れがおかしくなる、そんなこともわかんねいトーシローがでしゃばって ふざけたことぬかすないっ」
と言ったかどうかはわかりませんが、何しろ相手はスポンサーなのであんまりゴネると「じゃあ君解雇」と言われておしまいなので、なるべくスポンサーの意に沿うように、しかし自分の目指す和歌のあり方を織り込みつつ、根気よくやっていましたが、
後鳥羽上皇は何度も介入してくるので、新古今和歌集は定家が思い描いていたものとは全く別物になりました。こういうのってハリウッド映画とかでもよく起こっていそうなことですね。定家の日記にも
「介入がめちゃうっとうしい。全然おもしろくない。おもしろくないよー。共同作業なんぞやってられるかい。またテコ入れはいって また作り直しで いつまでたってもおわんねーよ こんにゃろめいっ」とあります。
1205年に新古今和歌集は出来上がり、その収録された歌の数は過去最多で、後鳥羽上皇は完成披露パーティーを自宅で開催しましたが、選者であった定家はこのパーティーに出席しませんでした。
まだ後鳥羽上皇と定家の話続きます。
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目