2020/06/19 02:38
6月18日 雨
本日のBGM 稲葉喜美子
源頼朝は不信によって身内を粛清していったわけですが、信用しない人は信用されないと言いますか、利害で繋がってた関係だと、必要でなくなったら切られてしまうみたいで、頼朝自身もまた北条家から裏切られる形になりました。鎌倉幕府のはじめの頃は裏切りの連続ですね。
この うちうちの戦いを制したのは北条家ですが、彼らは自ら上に立たず、あくまで執権(しっけん:将軍の補佐をするお助け役)という立場で、鎌倉幕府の実権を握っていました。
3代目将軍が暗殺されたことを 鎌倉幕府の混乱!今が好機!と後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は捉え、
「こぅらおまえら!執権とは口ばかりで幕府を裏から乗っ取るパラサイト野郎どもめい!わしがこの国の王じゃ観念せい!」と史上初の朝廷対武家政権のバトル「承久の乱」が勃発します。
この時の後鳥羽上皇の算段としては、「天皇が北条家を敵だと言っているんだから、全国の武士は必ず味方につくはず」というものでしたが、実際には鎌倉側に多く集まり、結果は朝廷の大敗となりました。
武士が多く鎌倉に賛同した理由として、北条政子がうまい演説をかまして士気をめちゃくちゃ上げたとも、武士は打算的で、勝ちそうな方、勝った際の利益が大きい方についてったら鎌倉勢がどんどん増えていったため とも言われています。
負けてしまった後鳥羽上皇はペナルティとして隠岐島でのスローライフを余儀なくされ、その子の順徳天皇も佐渡に島流しにされます。これにより定家と後鳥羽上皇は本当に2度と会うことはありませんでした。
この承久の乱が起こったことによって、世の中の価値観がまた大きく変わることになります。それまで鎌倉幕府はいち地方政権にすぎず、朝廷という中央政権ありきのものだったのですが、
戦争後、朝廷は完全に幕府の監視下に置かれるようになり、領地もかなり奪われ、政治に関わることは幕府の許可をとってからでないと決定する事ができなくなりました。次の天皇を誰にするか とかも管理されてたみたいですね。
これ以降 朝廷の権力は失われ、武家が全国を統治する時代となります。
後鳥羽上皇はこんなことをしでかしちゃったもんだから、しばらくの間すんごく馬鹿にされてしまいます。
「もーあのごうつくばりの独裁オヤジめ。あいつが何でもかんでも一番になりたがるから、自業自得ならまだしも 俺らまで巻き添えくって もう鎌倉に頭が上がらなくなっちまったじゃねーか。どうすんだい あんな田舎侍にいいようにされちゃってまあー情けな、あ、お侍さま、いらしてたんですか。も〜やだな〜それなら早くいってくださいよ〜 使いのものをやらせて案内させましたのに〜」的な感じだったそうです。
歴史に「もし」はないと言いますが、「もし」この時 後鳥羽上皇が天皇の威光を過信せず、全国の武士に前もって報酬を約束していたらどうなっていたんでしょうね。
あるいは「もし」後鳥羽上皇が兵をあげずにそのまま東西に分かれて統治していたら。
いずれは幕府にとって変わられたのか、それとも幕府は内部で粛清しあって自滅したのか。承久の乱のおかげで北条家のカリスマ性が上がり、朝廷側から奪った領地を武士たちに与えたことで結束力が強くなったことは確かですからね。
じゃあ「もし」三種の神器が失われなくて、後鳥羽上皇がコンプレックスを抱えずに育っていたら そもそもこのような戦争を起こしたのか。
「もし」源平合戦で平氏が負けなかったら、「もし」源頼朝も義経も子供の頃に殺されていたら、「もし」平氏が勢力を強めなかったら、、
そろそろ「もし」がゲシュタルト崩壊してきたところでやめますが、このようにあったかもしれない可能性を考えていたら、どこまでも遡っていくことになりキリがありません。平氏が台頭してこなかったら後鳥羽上皇も生まれてないですしね。歴史はこんな感じでした。
次は藤原定家の話に戻ると思います。
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目