2020/06/21 02:11

6月20日 くもりのち晴れ

本日のBGM Keith Jarrett Trió

前回の話は、自分を認めない貴族たちの古い価値観を否定して、新しきを目指していた後鳥羽上皇の選択が、自分を含めた貴族の時代を終わらせ、武家社会が始まるきっかけになったという、なんとも皮肉な話でした。


じゃあ後鳥羽上皇は宮廷のルールにしたがって、周りのご機嫌をとって生きていくのがよかったのかと言うと、

その方が幸せになれたかもしれませんし、朝廷も権威を保ち続けることができたかもしれません。しかしそれは「後鳥羽上皇が生きる」ことにはならなかったんでしょうね。


しかし望んだ方向ではなかったにせよ、後鳥羽上皇の選択により 時代が変わり、新しい価値観が人々にもたらされたことは、後鳥羽上皇が生きた記憶をつなぎ続ける確かなものになったのだと思います。


そんな後鳥羽上皇は島流しにされた後、宮廷ではあんまり触れてはいけないタブーな存在になっていました。

一方で藤原定家は、後鳥羽上皇に怒られて謹慎処分になっていたんですけど、承久の乱で後鳥羽上皇系の有力者が失脚したことで、定家の親戚筋の人たちの勢力が強くなり、おかげで定家は出世することができました。

承久の乱による勢力図の書き換えは、定家にとってはプラスに働いたみたいです。

ていうのも後鳥羽上皇とのゴタゴタした衝突があったもんだから 定家の出世はずっとストップされてたんですね。やはり上役に逆らっちゃいけませんね。


そして定家は、後堀河天皇から「新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)」の編纂を1人で任されます。これは当時の歌人として最高峰の仕事だったみたいで、やっと理想の和歌集を作れるぞー! と気合を入れて選曲作業に取り組みます。

その選曲リストには宮廷でタブーとなっていた後鳥羽上皇と順徳天皇(じゅんとくてんのう:後鳥羽上皇の子供。佐渡に島流しにされた。)の歌が入っていました。


定家にとってこの2人は、衝突してはいたものの、歌の歴史をまとめる際には 絶対に欠かすことのできない歌人でありました。

しかしこれについて後堀河天皇から「これさ〜 まずいでしょ〜、ねえ?そう思わなかった? あ 思わなかったんだ。いや後鳥羽上皇だよ〜まずいよね〜これは。まずいと思わない?鎌倉幕府がいい気しないよね〜 まずいよ〜。だからここはさ、ひとつ呑み込んでちょうだいよ。ね。わかるでしょ?」と釘を刺されます。

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このことを受けて定家は深く落胆します。後鳥羽上皇も幾度となく介入をしてきましたが、その向こうには上皇の 我の強い顔が見えていました。

しかし今回のケースでは、まだ起こっていないことに気を揉んで、リスクを避けて事を穏便に済ませようとするそれは、「正しいこと」なのかもしれませんが、決して芸術とは交わらない態度だったからです。

その意味で言えば、わがままを押し付けてきていた後鳥羽上皇は、実は同じ土俵の中にいて、その中で2人の衝突があったのですが、

今は主体のない空気のようなものに、その空気を乱さない選択をぼんやりと迫られていて、抗ってもその先には誰もいないという事に定家はひどく失望しました。

定家は後鳥羽上皇の時ほど反発せず、新勅撰和歌集の選曲はわりとスムーズに終わりました。 


そして出来上がった歌集には、後鳥羽上皇と順徳天皇の歌はすべて削除され、代わりに鎌倉武士の歌が多く入集していました。そして選者である定家の歌は必要最小限しか収録されていませんでした。

次はようやっと百人一首にいけそうですね!

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高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目