2020/06/25 01:43

6月24日 晴れ
本日のBGM Solomon Burke


百人一首が現在まで愛されるようになった要因の一部に、藤原定家の書いた小倉色紙が茶人たちの間で大人気となり、定家の字も「逆にいいよね」ってって一般ピーポーの間でも大いに流行ったという出来事があります。


定家は歌人であると同時に、古い文献を書き写す仕事をしていまして、毎日文字を書いていたわけなんですけど、

字のうまさは書いた量に比例するといいますから、毎日文字を書いていれば筆運びが上達して綺麗な字を書くようになります。陶芸も似たようなところがありますね。


ということは定家のあのヘタウマな字は完全にわざと書いていたわけです。というか世間で言うところの「上手な字」を書くつもりがなかったといいますか。普通は大量に字を書くうちに、お手本のような整った文字になりますが、それに反発するだけの強い自我、言っちゃえば傲慢さが定家にはあったんでしょうね。


そしてその傲慢さが、一つのスタイルとして数百年後に大流行するわけで、だからいま 変だと言われてる人たちも、価値観が変われば時代の先駆者と言われますから、大いに奇人として暴れまわって欲しいと思います。まあ全員認められる訳じゃないけど。


ちなみに陶芸でも、毎日ろくろを回してて、それでも下手に作れるというのはかなり凄いことです。普通の人はまずできません。作り慣れてしまったら、整った形に「しか」作れないのです。



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さて、前回 なぜこの歌なのか、定家は想像して欲しいと思ってる、といったことを書きましたが、

この想像するというのが和歌の1番大事なポイントでして、和歌が芸術として成り立つのに想像力は欠かせないものです。


「芸術とは何か」、良く議論される題材ですが、今のところ私は「芸術は感動するもの」と思っておりまして、

音楽でも映像でも触感でも味でも なんでもいいんですけど、それらの刺激によってもたらされた感覚が、頭の中で像を結んで、その結果 感情が動くことが感動であって、感情を動かすことのできるものが芸術だと思います。


なので、感動というのは「お涙ちょうだい」みたいなものに限らず、悲しいでも怒りでも絶望でも快楽でも笑いでも なんでもよくて、それらは方向性の違いであって、感情の動きという意味では同じものです。


そして芸術にもあらゆるタイプがあるのですが、共通するのは「感情を動かすことを意図して、作られたもの」になります。もちろん偶然そうなってる場合もありますけど。


感情というのは日常の中でもよく揺さぶられていて、この振れ幅が大きいほど、本人の感動、またはショックは大きくなりますが、だいたい人は成長するに従って感受性は鈍り、感動する度合いも減っていきます。


子供たちが些細なことで大はしゃぎしたり 泣き叫んだりするように、感受性がギンギンな時期は、日々の感情も大きく動いているんですけど、経験や知識が増えるにつれて、ただの刺激ではそうそう感情は動かなくなるんですね。(感受性がもともと強い人や、歳とともに衰えない人もいます。実はそれは今の社会では大変に生きづらいんですけど)


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ただの刺激では感動しなくなる代わりに、経験や知識が増えると、ただの刺激に意味や背景を見ることができるようになります。それは記憶と比較する力や、どうしてそうなったかを推測する力によって、つまり想像力によって、ただの刺激を面白がることができるようになるからですね。


ただ それでもかつての感動を補いきることはできないので、感動を補足するために芸術は存在します。ここでいう芸術は物語とほとんど同義ですね。

もちろん芸術のタイプとして、物語性のない、圧倒的な物量とか サイズとか 全く新しいもの などを見せつけられると感動しますが、

それは「刺激」が 大きい / 新しい ということによる感動で、慣れてしまって新鮮味がなくなれば、感動は少なくなります。ただその初回の驚きは、子供時代のような根源的な感動に近いと思います。


続きます!

おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目