2020/06/27 02:57
6月26日 晴れ
本日のBGM Sonny Rollins
前回 人は成長するにつれて ただの刺激ではだんだんと感動しなくなる、といったことを書きましたが、人間が日常生活を送る上で そうそう大した出来事は起こりませんで、
というか長い年月をかけてホモサピエンスは「人間社会」というシステムを作り上げて、なるべく異常な事態が起こらないように、常識とか法律とかのルールで自分たちの行動を抑制してきたのですけど、
ただ脳のほうはそれで満足してくれないみたいなんですよね。意思と言ってもいいかもしれませんけど、何かを強要させられることは 生物にとって とても不愉快なことだからです。
しかし人間には発達した大脳新皮質がありますので、「やりたくないことでも やったほうが結果的に自分にとってプラスになるから従う」という合理的な判断の積み重ねで人間社会は成り立っています。
のですが、その「合理的な判断」というのは、その度にストレスが溜まっていってしまいます。自分では意識していないような ものすごく小さなことでも。
人間社会で暮らす人は、社会のルールに対する反発がありつつ、それでもその社会に居続けなければならない、という葛藤があって、その矛盾した心のバランスを取るために感動が必要になります。
ここでの感動というのは「本能的な喜び」の疑似体験のようなものですね。ルールに縛られない世界で、意志と行動が矛盾していなかった頃の感情を一時的に再現、あるいは解放してあげる行為で、
自分たちの中にある 社会に反発する感情を飼い慣らすために 定期的にあげなきゃいけない おいしい餌みたいなものです。
しかし日常で感動するようなことはそうそう起こりません。それは人間社会というシステムが、全体の生産性を上げるために 個人の生活をなるべく繰り返しのものにして、一人一人が社会にとってのパーツとなるよう 役割分担されているからです。
そこで 感動を意図的に引き起こすための装置として芸術が作られます。
ここで言う芸術というのは、いわゆるアートでも、もしくはエンターテインメントと呼ばれるものでも、物語全般でも、歌でも、お笑いでも、恋愛でも なんでもよくて、「日常を忘れさせてくれて、非日常の中に脳をトリップさせてくれるもの」が私にとっての芸術になります。
そうすると この定義では、芸術というのはそれぞれの人にとって全く別のものであり、全員にとって一致する芸術の形というものはない、ということになります。だからアート作品というのはちょっと苦手だったりしますね。押し付けがましい感じがして。まあ私もそれ系のことやってるんですけど。
ほいでトリップと言っちゃってるんですけど、この役割はドラッグも担ってきたわけですね。もちろんタバコや酒も含まれます。酒がないと人間社会がどうなるか、
それについては かつてのアメリカで、禁酒法がどえらいことを やらかしてくれたことからも分かるように、人間社会を維持するためには 日常からの解放が必要不可欠なのです。それをドラッグで担うか、それとも芸術で担うか、ということなんです。
ストレスが溜まるほど 酒やタバコの量が増えるというのと同じで、ルールや常識による抑圧が強い人ほど、より大きな感動を求めるようになります。自主的に自分をルールで縛る人間ほどロマンチストだったりするわけですね。
そこで平安時代の貴族社会に一旦戻るんですけど、当時の貴族社会というのは現代からは考えられないくらい社会の枠組みが強固で、その中でのルールにガチガチに縛られていたからこそ、彼らには芸術が必要であったのです。
続きます!
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目