2020/06/30 04:54

6月29日 くもりときどき雨

本日のBGM The Friday Club


前回 日常やルールから一時的に解放されるために芸術(物語やエンターテインメントや音楽やスポーツやお笑いなどを含む広い意味でのもの)が必要だといったことを書きましたが、

このことを確認したい方がいましたら、3日間ほどテレビや本やスマートフォンなどを見ないようにしていただけると、かなり実感がわくかもしれません。人間にとって食事と同じくらいそれらは欠かせないものだと思います。

そして人間の脳は日常だけに耐えることができないので、そのうち自分自身で想像して物語を作るようになります。つまり退屈な時間が創造の土壌になっているんでしょうね。

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さて 平安時代の貴族に戻りますと、彼らの暮らしのスピードは現代の感覚とは全く違っていて、喋るテンポも遅かったと言われているくらいですから、大変にゆとりのある優雅な生活、つまり想像を働かせる機会は存分にあったわけですね。


想像力というのは身体能力と同じで、生まれ持った性能差が大きいのですが、鍛えられることでより発達していきます。想像力を鍛える環境というのは退屈や不快感になります。

それと想像力を鍛えるには材料も必要でして、それが知識と経験です。知識や経験が多岐に渡っているほど、想像できる世界はどんどん広がっていきます。


どのような形態の作品でも、受け取り手が作品を記憶することでリアクションが起こります。感情が動くためには瞬間的な衝撃だけではなくて、その出来事を記憶して、それまでの人生経験や知識と比較して、これは他に比べてここがすごいとか、これはこの点において新しいとかの振り返りによって、感動が起きています。


つまり最初の瞬間というのは衝撃や驚きでしかないんですね。振り返って思いを巡らせることで初めて感動が起こります。ただ このリアクションは無意識下で一瞬の間に行われるんですけど。


それ故に いろいろな知識が増えてしまえば、新鮮さによる感動は起こりにくくなるのですが、逆に想像できる世界は広がっていきます。その想像力に働きかけた芸術形態が和歌なんですね。


私が芸術と物語を ほとんど同じものだと思うのは、何かに感動するにはその何かの前後の文脈が欠かせないからです。人間は絶対的な判断基準を持っている生き物ではなくて、相対的な価値基準で物事を判断しています。

例えば毎日 白ご飯を食べている人にとっての白ご飯一杯の価値と、戦時中の白ご飯一杯の価値、ひいては感動は異なりますよね。人間はその人が生きた中で出会った物事の、平均ラインよりも上だとか下だとかって比較することで 物事を判断しています。生まれたての人間には価値の基準となるものがほとんどないので、育った環境によってその人の価値観が決定されます。


となると何かに深い感動を覚える時というのは、それ単発ではありえないわけですね。感動に至るにはそれまでの出来事と比較して、いろいろな要素が組み合わされることで感動がもたらされます。

例えばその2で、野球のことを全く知らない人にリーグ戦の優勝がかかった試合を見せても、新鮮には思うかもしれませんが、ファンの人と感動を共有することはできないですよね。

なぜこの試合展開に感動するのかを説明しようとしたら、

この試合はとても大事、それというのも このチームは何年前に優勝したけどその後どうだったとか、エースピッチャーは今年どんな戦績でどこを怪我しててそれでも復帰してとか、7番バッターは今年からやっと1軍入りして頭角を表してきてて今が大事な時期とか、ここで選手交代があるのは実はこういう経緯があってとか、

当人としては一瞬で感動できることであっても、その感動を他の人と共有するためには、実は膨大な量の知識や経験が必要であることに気づきます。

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つまり野球それ自体はただのゲームなのですが、同じ試合を見てても20年来のファンと、今日はじめて野球を知った人とでは全く別のものが頭の中に描き出されています。これはスポーツという事象を借りて、自分の中で物語が創作されているからです。


自分の中に物語が生まれて、それを是非とも他の人に伝えなくてはならない、と思った時に芸術が生まれます。だからほとんどの芸術作品は自分の中の物語を伝える行為だと私は思っています。


まだ続きます!

おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目