2020/07/05 02:15

7月4日 くもりときどき晴れたり雨

本日のBGM Luiz Bonfa


和歌って古臭いイメージがあったんですけど、よく考えたら聞き手の教養や想像力を前提とした芸術のスタイルというのは なかなかに先進的なもので、これは非常に文化レベルが高いですよね。

この形を必要としない創作のスタイルというのはすごく強くて、形がないから時間が経っても色褪せないんですよね。幻想だけを生かし続ける技法というか、

形のある芸術というのはどうしても それが作られた時点からだんだんと劣化していきますから、なかなか普遍性を持つことは難しいです。それは形を持つということそのものが普遍性とは相容れないからです。

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例えばミロのビーナスって腕のない半裸の女の人の大理石像がありますけど、あれは腕がないから芸術としての価値があるのであって、腕があったらむしろ困るそうです。

ミロス島で発見された時から腕がなかったことにより、見る人はあの像を不完全な形として捉えて、頭の中で腕の部分を補完するんですね。

そうすると完成形は、頭の中で具体的な形を持たないまま美化されます。頭の中でも形は持たないんですね。でも実は頭の中で「理想的な」完成形が無意識のうちに描かれています。


まあー 例えるなら男性が マスクをしてる女性を見て、具体的にどんな顔かとか意識しなくても「自分にとって理想的な」顔立ちを、実は無意識の中でイメージして、相手の顔を補完していますよね。それでマスクを外したら勝手にがっかりしちゃったりして。

これと同じことがミロのビーナスにも起こっていて、もし腕が発見されたら「あ、なんかねー、うん、なんかーねー、想像とー違うんだねー。結構ねー」みたいになって幻想が消えてしまいます。


つまりミロのビーナスは腕がないことにより今なお芸術であり続けられるのですが、失われた部分を妄想させるためには、失われてない部分が秀逸である必要があります。ミロのビーナスなら体の作り、マスクの女性なら目元とかですね。


この状態になることができれば、それぞれの人が、自分にとって理想的な妄想を抱いてくれるから芸術はものすごく寿命が長くなります。それを意図的にやっているのが和歌なんですね。

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和歌は具体性を排除したからこそ想像できる範囲をものすごく広く持つことができて、それゆえに時代を超えて普遍性を持つことができ、百人一首も現代までつながってきたのですが、

想像させるための装置がわずか31文字しかないので、この31文字は本当に優れた構成でなければいけません。例えるなら体のほんの少しの挙動だけで、今から何をするか相手が分かってしまうみたいな。

優れた武術家は相手が構えただけで、そいつが次何をやるか わかるそうですから、それと同じですよね。つまり和歌を楽しむためには聞き手の方も熟練の武術家なみの経験値が必要なわけですね。


これは「能」も同じことだと思います。能の演者はものすごく緩慢な動きをしていますが、あれは最低限の動きだけを見せることで、観客の頭の中に、現実に縛られない、想像の世界を描き出そうとしているのだと思います。

和歌も能も、作り手と受け手が同じレベルにいる時が、ものすごく面白いんだと思います。それはスポーツも同じですよね。上級者同士が一番面白いですから。


現代は楽しめるものや、とりあえず脳を回転させてくれるものがたくさんありますが、もし用意されたものに飽きてしまったら、吸収した知識によって想像力の海が広がってますので、それはそれで楽しいと思います。

平安時代も言っちゃえば大きな停滞の中にありましたからね。その中では想像力による遊びが必要不可欠なものだったのだと思います。


テイカカズラと藤原定家の話、たぶん次で終わると思います!


おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目