2020/07/23 01:51
7月22日 晴れのち雨
本日のBGM Unknown Mortal Orchestra
素焼きの器に釉薬をかける前に、コンプレッサーで風を当てて 削りカスを飛ばす、という作業を毎度やっているのですが、この丼たちは荒土で、荒土というのは粘土を作る際の不純物を濾す網の目が通常よりも粗い、つまり不純物多めな土なんですけど、
何が不純物でいバカヤロー、不純物と思って除外したものたちが 実は全体の系の中で重要な役割を担っていて、除外したことでもっと深刻な問題が起こったなんてことは今までの歴史の中で何度もあったじゃねえか、という自然原理主義者とは一緒にしてほしくないのですが、まあそれに近いことは粘土にもありまして、
粘土というのは2マイクロメートル以下の鉱物のことで、それ以上の大きさになると砂とか石とかシルトとかいう呼称に変わるのですが、
粘土で形を作って それを焼いて 陶器にした場合、粘土を構成する粒子が全て同じ大きさの 細かい粒子だけの粘土で作った器よりも、細かい粒子と粗い粒子とが どちらも程よく含まれた粘土で作った器の方が強度があるそうで、器の強さは粒度分布のバランスによって大きく違うということを他の陶芸家の人から聞いたことがあります。
だから荒土がいい、というのは粘土原理主義者の理由付けの一つですが、私は荒土で作った焼き物の方が ザ☆焼き物 って感じがして好きでして、そんなわけでこの丼も荒土で作ったんですけど、荒土だから削りカスもまた大粒でして、
その削りカスをコンプレッサーの風で吹き飛ばしていたら、わりと大きめな砂粒が私の目に飛び込んできて、こいつは指で擦ったりすると大変にやばそうな雰囲気を眼球の中で醸していましたので、涙で押し流そうと思いまして、
下を向いて瞬きをせずに目を見開いていたらやがて涙が溜まって、粒が大きい分 重力に引っ張られて出ていくかなと期待して、涙を溜めてしばらく下を向いていたのですが、下を向いているから 涙が表面張力でずっと目に溜まっていて、その時の視界がまるで水中にいるかのような見え方でして、大変に新鮮な感覚、
例えるなら透明度の高い水の中に沈んだ廃屋の中にいる感じで、ちょうど置いてるものも古びてるし、庚申窯がダムの底に沈んだような気分を味わえました。
しばらくダムの底状態を楽しんで、砂粒が出て行ったかどうか微妙だったので鏡で眼球をチェックして、自分の目をまじまじと見てみると 瞳の輪郭って思ったよりぼやっとしてて、だから昔カラコンをつけてた女たちってのはあんなに違和感があったのか!と今更納得しまして、
削りカスを吹き飛ばす作業がまだ残ってたので、林業の職人さんがチェーンソーで木を切る際に明後日の方向を向いて刃を当てる、というやり方を見習って、明後日の方向を見ながら削りカスを飛ばしました。
しかしこの明後日の方向ってどうなんだと思いまして、なぜに明後日?明後日というのは現在とは全く別の世界だということでしょうか。
明後日というと 一昨日きやがれ という慣用句もありますが、これも 最近日本に来た外国人留学生に理由を聞かれたらうまく答えられませんぜ。一昨日に来ることはできないから もう来るんじゃねーぞ ってことでしょうかね。明後日の方向に比べたら こちらのフレーズを日常で聴くことはすごく稀な気がします。
どちらの言葉も意味を考えようとしたらヘンテコですけど、どちらもフレーズとしていい感じで、細かい意味とかよりもリズムとかメロディとかで このフレーズたちは定着したんじゃないかしら。なんやわからんけどなんかわかる的な納得感ですよね 一昨日きやがれ。私もいつか言いたいんですよ一昨日きやがれ。なんか頑固者の親父感あるじゃあないですか。2度と来るな!とかだったら言われたことはあるんですけど。
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目