2020/08/28 06:29

8月27日 晴れ

本日のBGM Sy Smith - Fly Away With Me 


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人類初〇〇という歴史的な快挙があって、それを成し遂げた人の名前は歴史に刻まれるわけですけど、それはその人が単独で時代に先行したり、他に誰も手を出さなかった分野で独自に研究をしていた、というわけではなくて、

大西洋横断でいうなら何人もの先人たちの研究の積み重ねと、科学技術の向上によって もう誰が飛んでもおかしくないくらいに その分野の成果が蓄積されて、その飽和状態の中 次の一手を誰が打つのか?という状況があって、

その次の一手を担うことのできたリンドバーグが歴史に名を残したわけですけど、もしリンドバーグがいなかったとしても 大西洋横断は同じような時期に 他の誰かが成功させていたんですね。

世紀の発明なんかも同じようなもので、多くの人の研究成果が積み重なって 技術進歩が飽和状態になって、「あと少しだけ研究が進んだら」という状況で最後の一押しがなされると 新たな技術が生まれるのですが、

その最後の一押しを担った人の名前だけが歴史に刻まれるので、まるでその人が全てを成し遂げた というような印象をどうしても持ってしまいます。まあたまに大天才みたいなのが現れて その分野のレベルを数百年くらい進めてしまう例もありますけど。

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というわけで1920年代半ばに 航空技術は研究者たちの努力と 数多くの犠牲のもとに発展して、リンドバーグが飛んだ1927年には 大西洋横断のための航空技術はもうすでに十分な水準に。こうなったらあとは誰が先んじるかのレースなので 時間との戦いになります。


リンドバーグがオルティーグ賞への挑戦を思いついて、ライアン社という当時まだ新興の、飛行機作り出してから2年しか経っていない航空機会社に「ちょいと急ぎで飛行機作ってくれよ」っつって打診すると「特別に急いだら3ヶ月でできまっせー」って回答されますが、

「そこを何とか!もう一声!」ってせがんだら「わーかったしゃあない!2ヶ月で作ったらぁ!」ってって引き受けてくれて実際に突貫工事で60日で作ってくれたんですけど、

何でリンドバーグが実績のないライアン社を選んだのかというと、最初予定していた優秀な航空機メーカーが 自社の飛行機にリンドバーグが飛行士として乗ることを拒否したからなのです。

航空機会社からすれば自社の提供した飛行機で 大西洋横断に挑戦して 失敗されたら会社の名前にケチがつくので、無名のリンドバーグを乗せるのはリスクがあったわけですね。

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ほんでリンドバーグはカリフォルニア州サンディエゴにあったライアン社の工場に行って、2ヶ月間泊まり込みで設計に携わって 工員たちと飛行機製作を共にします。

飛行機が出来上がるまでの間、リンドバーグは入念にフライトシミュレーションをして、大西洋横断のための地図を読み込み、海岸線の形を暗記したり、飛行何分でどの方向に進路を向けるか、などの計算をしていました。

これは星と水平線の角度を測ることで 今 自分が海の中のどの位置にいるのかを正確に測ることのできる六分儀を持っていかないと決めていたからです。

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ていうのもライアン社の作る機体は必ずしも理想的な飛行能力ではなかったので 少しでも長距離を飛べるよう余計なものを排除して 飛行機を軽くしようとしていたからで、

リンドバーグはコンパスの指す方角と飛行機のスピードなどから「たぶん今この辺っしょ」って地図と予定ルートを照らし合わせて位置を把握する推測航法で飛ぶことに決めて、そのための入念な計算をしていたことが大西洋横断を成功させる一つの要因となりました。


リンドバーグ が無茶言って飛行機製作を1ヶ月 縮めたわけですが、リンドバーグがニューヨークからパリへの無着陸飛行に成功した その2週間後に、もっと遠いニューヨークからドイツへの無着陸飛行を成功させた人がいて、その人もオルティーグ賞にエントリーしていたので リンドバーグの決断は正解だったと言えます。


まだ続きます


高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目