2021/06/06 23:51

温暖な季節になってくると陶芸家らしく朝起きるのが早くてですね、て言うのも一日2回寝てるし、寝てる時の頭の位置が窓の真下にあって カーテンも閉めないから 明るくなってきた前後に目が覚めて、それは明け方というか ど深夜というかそんな時間帯だけど、夜明け前の田舎において周囲の活動音はカエルの声くらいで、遠くの貨物列車の音が聞こえるくらいに静か、そんなだから町の方を走るバイクの音もばっちり聞こえてくるわけで、

そのバイクの音というのはいわゆる暴走族的なものというか、でも暴走族と言えるほど数を伴ってない危急種指定な暴走族、一、二台とかでエンジンをフォンフォンふかして燃料効率の悪い走行をしながら市井を暴走していただいているのですが、その音を聞きながら私の中のワンガリマータイさんが「モッタイナイ」と言っておりまして、あのエネルギーはなんかにつかえないかしらん、て。


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村上春樹の最初の方の小説で「もう今はゲバ棒を振り回してたら自己表現が成り立つような時代じゃない」的な一節が確かありましたけど、それで言うと現代というところはバイクで騒音を奏でてたら自己表現が成り立つ時代でもなくなっているわけで、

若者文化というのは その時代ごとに若者の反骨性を象徴するスタイルがあったけど、インターネットができてからというもの、情報の受送信がまるきり変わって、「みんなこうだからこうしてる」みたいな、その時代の若者全員が共有するような統一的な価値観は無くなって、それぞれのスタイルは より多様化しちょりますよね。若者文化で巨大な統一価値観を持っていたというと、今のところギャルが最後になるんじゃないかしら。


そこで今バイクをブンブン鳴らしてる彼ら、たくさんの選択肢がある中で あえてオールドスクールかつ、投入するエネルギーや時間、金銭に対しての見返りや手応えが著しく低い、具体的に言うと

夜中にブンブン走っても大体の人は寝てるし、近年値上がりしてる石油は消費されるし、耳は悪くなるし、生活リズムは狂うし、バイクの機構にはダメージが蓄積するし、日の出前だと今の季節でも寒いし、時間もそれなりにかかる、という困難を伴いながら走られておるわけで、

それしか表現手段がなかった時代ならともかく、暴走行為をやることで示される社会的姿勢はもうそれほど共感を得ないわけだから、もうちょい生産性があって彼らの評価が高まる方向性でエネルギーを使った方がいいと思うけれど、そんな風に考える私の方が合理主義に傾きすぎているのかしら。

暴走族的な行為は かつては体制への反抗を象徴していたかもしれないけれど今ではもう表現手段としてレッドリスト入りしているというか、暴走族というのは表現文化に発展しなかったものなのではないでしょうか。(そう考えると筑豊には未だに暴走族的な人たちがいるというのは 大変豊かな環境が残っているとも言えますな) 


怒りのエネルギーが表現文化に発展することはよくありまして、例えばニューヨークのゲットーで生まれたブレイキン(ブレイクダンス)とか、LAのサウスセントラルで生まれたクランプとかは、どちらもゴリゴリに治安の悪い場所で、犯罪やドラッグに行ってしまわない為の自衛手段として出来上がったスタイルで、今やダンスの技法として欠かすことのできないものになっていますよね。

音楽ではプランテーションでの強制サービス残業で黒人たちが歌った労働歌からブルースが生まれて、やがてジャズやロックに繋がって、それらは発生当初において体制への反骨精神と不可分だったけれど、やがて反骨精神の部分は薄れて 表現技法として確立していったというか、本来の意味合いとは関係なく、表現そのものが愛されるようになったってことだと思います。そう考えるとギャルも表現として確立していますよね。山姥メイクは無くなったけど。


その点 暴走族はというと特攻服とか改造車とか特徴的ではあるけどキワモノというか、その魅力は暴走族という集団の価値観の内部にいる人にとって収束されている、要するに一般ウケしないから表現そのものが一人歩きしなかった ということなんじゃないかしら。

あるいは暴走族には意味しかなかったのかもしれないですね。スタイルよりも精神性の方が重要であったというか、むしろ一般受けしないことで その集団内での帰属意識がより高まるという効果があって、周りの普通の人たちと比べて「俺たちは違うんだ」ってことを強調するためのキワモノ化なのでしょうか。

部族が同じ部族の人を見分けるための装飾みたいなもんですな。これはもしかしたら多民族国家と単一民族国家の違いと言えるかもしれないですね。多民族国家だとわざわざ差異を強調しなくても最初から違いますものね。

そんな感じで自分たちの中だけでかっこよさを定義して、外部を拒絶することでより結束を高めてたわけだから、外部に対して「魅せる」機能が十分に発展しなかったんじゃないでしょうか。


かつてなら暴走族になった層の若者たちは 今では多様な形態に流れていて、一方 今だに暴走行為を行っている人たちって時流の流れに乗らなかった頑固者たちなわけで、言い方を変えると先人の踏襲を大事にする人たち、イノベーター理論で言えばラガードに当たるわけで、これらのことから考えると 彼らって伝統工芸に向いているんじゃないかしら。

上野焼もゴリゴリに後継者不足なわけだし、彼らみたいな自分のエネルギーでなにかを成したいと思ってる人には伝統工芸は向いていると思います。しかも伝統を大事にしてるし、周囲の目にも臆さないガッツもあるということで、彼らは排気音で自己表現するよりも創作した方がいいんじゃないかしら。私もバイクの免許を取ってスカウトに向かうべきかもしれないわ。ケロロ

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高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目