2021/06/10 10:29

本日のBGM Chet Baker - Time After Time

漫画ベルセルクの作者 三浦健太郎氏が亡くなってしまって、ベルセルクもまた「未完の大作」へ メンバー入りしてしまったんですけども、ベルセルクに対しては大作という言い方がしっくりくるなあと思って、やっぱりあの絵のクオリティがえげつないから作品として品格がありますよね。

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私は漫画に対して絵のクオリティを求めないタイプの人間で、絵のうまさよりも「漫画のうまさ」のほうが重要だと思っていますが、それでもベルセルクくらい絵を描き込まれたら もうその物量にすごい!と感服してしまいます。

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もはやどうでもいいコマとかでも背景びっしり描いてて、そのイズムはアメコミとか、ヨーロッパのバンドデシネみたいなもので、

それらコミックの読み方というのは ページ一枚一枚を鑑賞するように 絵から物語を「読み解く」感じで、1ページ読むのに5分とか10分とか時間をかけるから、向こうのコミックはページ数が少なくても成り立つのだそうです。

でもベルセルクの場合、絵のクオリティは限界まで突き詰めてる上で、日本漫画のページ数を描くから、一巻出すごとに絵画を200枚描くようなもので、そのエネルギーはとてつもないものだったと思います。できれば完結して欲しかったですけど、残念ながら続きはもう描かれないので あとはイメージで補完するしかないですね。物語が広がります。


ベルセルクの絵には西洋絵画の技法とかが用いられていて、キャラクター造形にはヒエロニムス・ボス イズムが入ってるなと前から思っていましたが、34巻ではボスをもろにオマージュしたページがあって、ついにやりやがったな!と当時読んで めちゃくちゃカッコいい!と猿叫しました。

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この↑シーンの元ネタは15〜16世紀の画家ヒエロニムス・ボスの三連祭壇画「快楽の園」の未来パートになりまして、一応地獄を書いていると言われています。

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腹が空洞になってる男の人の顔の向きが違うのは、三連祭壇画が左から右へ読むのに対して、日本の漫画が右から左に読むためですね。これ↓が全体の絵で左がアダムとイブ、真ん中が現世、右が終末となるのが三連祭壇画のフォーマットです。

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閉じると世界↓

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画像表現において書物を読む方向と時間軸の流れは一致しまして、縦書きの日本語の場合 右から左へ文章が続くので、漫画上でキャラクターが右を向くのは過去を振り返るとか 流れを止める ことであり、左を向くのは未来を見つめる、物語を進める、という表現になります。


ヒエロニムス・ボスは大変に好きでして、このイメージの突飛さがたまんないですよね。ラリってんのけ?ってくらいにどれもこれもイカれてるし、絵のどの場所を見てもそれぞれの場所で小さな演出があって、それでいて全体として調和してる という感じでしょうか。

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ボスの絵は16世紀の宗教改革における偶像破壊で多くが燃やされたりして あんまり残ってないんですけど、この絵は現在のオランダ王家の元であるナッサウ家が所有していたことで難を逃れ、最終的にはゴリゴリのカトリックであったスペイン帝国のフェリペ2世(スペイン最盛期の王様、妻と子供がよく死ぬ、フィリピンのネーミングはこの人の名前から)が買い取って現在ではスペインのプラド美術館に収蔵されています。

そして絵のイメージは三浦健太郎に繋がって、それでまたベルセルクを読んだ人たちに、無意識にでも伝わるというのは創作における良い連鎖であり、イメージの進化なんじゃないかしら。


まあその進化とか知恵を持つことを否定しているアダム主義(ヒッピーみたいな主義)を描いてるんじゃないの、という説があるのがこの絵、「快楽の園」なわけだから、もしそうだとしたら絵の持つ意義とは矛盾してるけど、これもまた「表現の一人歩き」でもあるし、まあ文明は捨てられないから行くだけ行っちゃいなよYouって感じです。この終末も結構楽しそうじゃない。


ベルセルクはコミックとして読むだけでなく、もしかしたらそれ以上に絵の鑑賞として楽しめると思うので、原画が展示されるベルセルク展は行くしかないですな。

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高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目